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説教  青堀教会牧師  吉田誠二
   
  2021.1.17   マタイ 4:18−25   「弟子たちを呼ぶ声」
 
 イエスさまが宣教を開始し、ペテロらを弟子として呼び集めます。
当時の彼らの生活は充実していたでしょうか。日々生きがいを感じ、満たされていたでしょうか。
マタイ4:15,16には、暗黒の中、死の地、死の影にあったガリラヤに光が上ったとあるのですから、彼らのたましいは餓え渇き、自分の役割、自分の使命は何だろうかと、悩み求める日々だったはずです。

 ペテロたちがイエスさまと出会う時、神さまのご計画が動き始めます。
彼らは天地の造られる前から、キリストにあって選ばれていました (エペソ 1:4)。イエスさまは彼らを捕らえるために彼らの心に一番響くものを与えます。 漁師だった彼らが夜通し網を打って、何も獲れなかった時です。

「深みにこぎ出して、網を下ろしなさい」 明るくなったら魚は深みに潜り、網が届かなくなります。しかし、結果は仲間を呼んで4人がかりでやっと網を引き上げるほどの大漁となりました。こんな話は見たことも聞いたこともありません。代々漁師をやってきて初めての経験でした。

 この奇蹟で彼らはイエスさまが誰であるか悟ったのです。彼らの心に響く最も良い方法でした。 ペテロはイエスさまの足下にひれ伏し、「主よ、私のような者から離れて下さい。私は罪深い人間ですから」そこで、「こわがらなくてもいい、あなた方を人間を取る漁師にしてあげよう」。こうして、4人は網を置いてイエスに従ったのです。(ルカ 5:1−11)
 この出会いが、彼らの人生を大きく変えていきます。彼らの心にあった暗やみに、光が上ったのです。 神にある生きがい、何物にも替え難い生き方に入っていきます。 私たちも、神との貴重な出会いを経験し、今生かされています。 最も大事なことは何か、求めながら今のこの時代を生きていきましょう。






 
説教要旨   

2021.1.24  マタイ 5:1−6   「八福の教え・1」
 

 イエスさまが宣教を開始すると沢山の人が集まってきました。彼らは虚しさを覚え、悲しみをこらえてやって来たのです。
 「八福の教え」は、「幸いである」と言う言葉が、八回出てきます。この世にある幸福感とは正反対の言葉が語られています。

「心が貧しい」とは、心が空っぽであるということで、この世のものでは満たされない、虚しさを抱えていること。「心が卑しい、狭い」「経済の貧しさ」でもありません。パウロは、イエスさまに出会う前、自信満々の人で、この世のもので満たされていました。しかし、主を知りそれらをちりあくたのようにとらえるようになったと言っています(ピリ3:7〜) 。それくらい救いの意味は大きかったのです。   
 
悲しんでいる人は、普通は幸いではありません。しかし、救い主の元に言ったならば大きく変わるのです。 主は言いました「あなた方、今笑っている者は、災いだ。悲しみ泣くようになるからだ」ルカ6:25
この世のものだけで喜んでいると、主の元には行かなくなります。悲しみは、救い主を求めさせ、真の答えに導くのです。救いを得た者の心の奥底から喜びが湧くようになるからです。(御霊の実など)

 「柔和」で穏やかでへりくだっていると、世の繁栄からは遠ざかるかも知れません。  人を押しのけ、蹴落としてでも、地にあるものを取りに行くようでなければ生きていけないと世は教えるのです。 
 
 しかし、「柔和な人たちは、幸いである」と言いました。「あなたの王は柔和で、ロバに乗ってやって来る」「できる限り謙虚で、柔和に、寛容を示し、愛をもって互に忍びあいなさい」(エペ4:2)。
  
世界で一番「柔和な方」は、イエスさまでした。柔和は弱いという事ではありません。忍耐強く、我慢強く、不当な苦しみに遭っても自分で復讐しない、一切を神に委ねる美徳であることを示しています。イエスさまの教えは、世にあるものとは違う、逆転の教えだったのです。






 
 
      
 2021.1.10  サムエル上16:1−5  「王座に立つのは誰か」
 
 王様は、全ての権威をもって支配する人です。一番偉くなった王様は神を恐れ、神に従う人でなければなりません。そうでなければ大変危険なことになるからです。

 サウル王は最初は良かったのですが、途中から高慢になり神に不忠実になりました。 失敗して悔い改めても中途半端で、神よりも自我に従う人でした。そのために、次のダビデに、王座を譲らなければなりませんでした。
 このことは何を意味しているのかというと、私たちの心の王座にも、同じように不信仰で不従順な自分がどっかと座しているのです。 しかしある時、自分はどうしようもない罪人だと気付いて、イエスさまを信じ、心の王座にイエスさまをお迎えし、席をお譲りするということを意味しているのです。( ロ−マ 6:13)
・・・若い内に神を信じ、その人生を神にささげなさい。そうすれば、神は人生に意味と喜びを与えてくれる。そうしないと年を取ってから、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようになるのです。(伝道者 12:1)
 人に確かな歩みを与え導かれるのは神であり、この真実な神に信頼して歩むならば、神からの賜物をゆたかに楽しむことが出来るようになるからです。 聖書には年を取ってから神さまに用いられた人が沢山出て来ます。
 アブラハム、サラ、モーセ、エリサベツ、女預言者のアンナなど沢山の人の名を上げることが出来ます。彼らは皆特別な人ではなく普通の人でした。 年を取った人は最先端を生きています。色んな経験をしてきました。
その経験から、結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてであると、分かっている人たちなのです。(伝12:13)



 
 
説教要旨